カタムキ

傾いて倒れそうになっている物体を見たとき、我々はその傾き加減を擬似体験することができる。安定して立っている物を見たとしても、運動共感を強く意識することはないだろうが、その物体が傾いて不安定な姿勢になったとき、我々はその傾きを感じとることができる。もし自分の身体がその物体と似た姿勢をとるとしたら、どんな不安定な感覚があるか想像し、共感することができる。

カイテン

「カイテン」の要素は、身体が回転したり、曲線に沿って動くときに感じられる遠心力のことを指す。例えば、バレリーナがつま先立ちの状態でスピンをするときや、ハンマー投げの選手がハンマーを振り回すとき、曲がり道に沿って走るとき、遊園地でティーカップに乗るときに感じられる。回転運動や曲線に沿った運動をする物体にたいして、この要素の身体感覚が共感される。

タイセキ

わたしたちの身体そのものの体積は短時間ではさほど変化することはないものの、わたしたちの身体が占めていると「感じる」空間については、よりダイナミックに変化する。身体を大きく広げたときと、縮めたときとでは、自分の身体が占めると感じる空間の形や大きさは異なるはずだ。「タイセキ」の要素は、身体や物体が占めると感じる空間の形や大きさの感覚を指しており、パーソナルスペースと呼ばれている身体感覚に近い。

たとえば自動ドアの動く範囲に障害物がありドアが閉まらない様子を見たときには動きの不自由さを感じるが、これは「タイセキ」の感覚が侵害されたことで感じる運動共感であるといえる。

シンドウ

「シンドウ」は、比較的速く周期的な揺れ、その名の通り振動の運動感覚を指す。この要素は、寒さや緊張、怒りを感じたとき、またはスプレー缶を振るとき、ごつごつした道を自転車で通るときなどに感じられる。物体の振動を見たとき、この種類の運動共感を感じることがある。

ジュウリョク

「ジュウリョク」は、地面の方向にはたらく重力を感じるときの運動感覚のことを指す。この要素は多くの状況で経験される。たとえば、自然落下するとき、ジャンプするとき、転ぶとき、ブランコに乗っているとき、ロッキングチェアに座って揺れているとき、乗っているエレベータが加速したり原則したり、停止したりするときに現れる。重力に従って下降する物体や、もしくは明らかに重力に逆らって動いているように見える物体を観測したときに、「ジュウリョク」の種類の運動共感を感じることがある。

ショッカク

他の多くの要素が身体の内側の感覚であるのに対し、「ショッカク」の要素は何かの表面どうしが接触するときの感覚を指す。わたしたちは自身のからだが何かに触れたときに触覚を感じるのはもちろんだが、(自分のからだからは離れた)物体同士が接触する様子を見たときにも何らかの「ショッカク」を感じてしまう。

たとえば、ドアがピシャリと閉まる様子を見たとき、あるいはただその音を聞いただけでも、ドアとドア枠の間の衝撃や、ドアの縁の隙間で空気が押し込まれたり押し出されたりする様子や、またはドアラッチがラッチ受けに収まる様子などのなかに、様々な素材感とダイナミクスの「ショッカク」を感じとることができる。

カンセツ

複数の硬い物体が接合され、ある程度の動きができるような機構は、継ぎ手やジョイントと呼ばれる。身の回りの物体でいうと、たとえばデスクライトのアームの曲がる部分であったり、ノートパソコンの折りたたむ箇所や、ドアとドア枠の接合部分などがそれにあたる。

人間の身体にも「関節」という似た構造があり、たとえば肩、背骨、手首、指、膝、首などがあり、それぞれ動きの範囲や自由度は様々である。関節では、ある範囲の中で自由に動き、それを超えた方向には動かないつくりになっている。「カンセツ」の感覚は、こうした関節部分を動かしたときの感覚を指し、似た構造をもつ人工物の動きに対して抱く運動共感の源となる。

チョウリョク

からだを曲げたりねじったり膨らませたりするとき、様々なかたちの張力がはたらく。同様に、物体がしなやかに曲がったりねじれたりするときにも、その物のなかに張力がはたらいている。「チョウリョク」は、このようなしなやかな変形によりうまれる感覚を指す。

運動共感によって、実際にその物を触らずとも、物体のふるまいを見ただけで、そこに働く張力がどのような強さをもち、どのような方向にはたらいているのかを想像することができる。触ったりもったりしたことのある素材や構造にはたらく張力に関しては、一層鮮明に想像し共感することができる。

デハイリ

「デハイリ」の感覚は、呼吸、飲食、嘔吐、排泄などの動作において現れる。つまり、外部の物質が体内に入ったり、体外へ出たりするときの感覚を指す。

日用品の中でこの種の運動共感を生む現象といえば、ケトルの注ぎ口から蒸気がもくもくと出る様子や、ホースから水が出てくる様子、または掃除機がゴミと空気を吸い込んでいる様子や、ゴミが中で詰まって掃除機が苦しそうにしている様子などが挙げられる。

ジコジュヨウ

ジコジュヨウ(自己受容)とは、自分の身体のある部位の位置や向きの感覚を意味する。この感覚があるおかげで、自分の身体のパーツが空間のどこにあるかわかるため、たとえば真っ暗の部屋の中でも、手でスイッチを見つけ出し電気が付けることができる。

この種の運動共感は、物体の変形を見た際に経験される。物体の変形に対して、それに近い自分の身体の姿勢や動作を投影してしまうことがある。

クウカン

「タイセキ」が身体が占めるスペースの感覚を指すのに対し、「クウカン」は私たちの身体が存在する空間に対する感覚のことを指す。狭く限られた空間にいるとき、身体もまた抑圧された感覚を得るが、一方で広く大きなスペースにいたり、そこで動き回ったりする際には、逆に広々とした開放感を感じるだろう。更には、同じ空間であっても、その空間の中心にいるときと、端にいるときでは、空間の感じ方が変わる。

何か動いている物体を見たときには、この「クウカン」の種の運動共感が意識されることがある。たとえばロボット掃除機が椅子の脚と脚の間で狭そうにしている様子と、何もないフローリングの上をのびのびと動いている様子では、ロボットの周りの空間の感じ方が異なる。ロボット掃除機自身が感じているであろう「クウカン」に共感することで、こうした運動共感の感覚が生まれる。

カソク

「カソク」と「ゲンソク」の要素は、その名の通り、加速運動と減速運動のなかで感じられるそれぞれの慣性力の感覚を指す。たとえば立ち止まっている状態から歩き出すときのように、身体が静から動へと移るときには「カソク」の感覚が得られ、逆に歩いたり走っている状態や車を運転している状態で、スピードを落としていくときには「ゲンソク」の感覚が感じられる。

ゲンソク

「カソク」と「ゲンソク」の要素は、その名の通り、加速運動と減速運動のなかで感じられるそれぞれの慣性力の感覚を指す。たとえば立ち止まっている状態から歩き出すときのように、身体が静から動へと移るときには「カソク」の感覚が得られ、逆に歩いたり走っている状態や車を運転している状態で、スピードを落としていくときには「ゲンソク」の感覚が感じられる。

リズム

呼吸、心拍、歩行、咀嚼など、身体の動きの中には比較的ゆったりとしたサイクルでの反復運動が存在する。これらは、「シンドウ」の要素が表すような、携帯電話のバイブレーションのような高速で細かい振動の感覚と比べると、反復運動を構成する一つ一つの動きを捉えやすい。「リズム」は、このような反復運動がもたらす運動感覚を指している。

秒針のチクタク、振り子時計の振り子の振動、鹿威しの動きなど、ひとつひとつの動きが認識しやすい周期運動にたいして、「リズム」の運動共感が感じられる。

セイシ

試しに身体の動きを完全に止めてみようとする。すると、わたしたちの身体にとって動いている状態がいかに自然なことか、逆にいえば、止まっていることがいかに不自然かが分かるだろう。この静止したときの独特の身体感覚こそが、「セイシ」が指しているものだ。運動共感において「セイシ」の感覚は、止まっている物体が、他の動いている物体と比較されたとき、または本来動いているはずの物が、外力か内力かの影響によって静止している様子を見たときなどに感じられる。